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井戸茶碗とはなんなのか?井戸茶碗に ついて私の考察と蓄積してきた技術論のようなものを纏めてみました。 |
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第1章 見果てぬ夢 茶碗の風格、品格、味わい、姿、形、色合い、全てにおいて王者で ある井戸茶碗、戦国の武将が愛した茶碗。武将にふさわしく大きな茶碗。奥深く毅然と立っている茶碗。ここまで完璧な姿、形があるものだろうか。 かっての陶工たちは、何を思い、何を目指して、誰のために井戸茶 碗を創ったのだろう?当時、何のための道具だったのだろう? 以下、柳宗悦『茶と美』のうち、「喜左衛門井戸を見る」より 抜粋。 「いい茶碗だ─だが何という平凡極まるものだ」、私は即座にそう 心に叫んだ。平凡というのは「当たり前なもの」という意味である。「世にも簡単な茶碗」、そういうより仕方がない。どこを捜すもおそらくこれ以上平易な器 物はない。平々坦々たる姿である。何一つ飾りがあるわけではない。何一つ企みがあるわけではない。尋常これに過ぎたものとてはない。凡々たる品物である。 それは朝鮮の飯茶碗である。それも貧乏人が普段ざらに使う茶碗で ある。全くの下手物である。典型的な雑器である。一番値の安い並物である。作る者は卑下して作ったのである。個性など誇るどころではない。使う者は無造作 に使ったのである。自慢などして買った品ではない。誰でも作れるもの、誰にだってできたもの、誰にも買えたもの、その地方のどこででも得られたもの、いつ でも買えたもの、それがこの茶碗のもつありのままな性質である。 それは平凡極まるものである。土は裏手の山から掘り出したのであ る。釉は炉からとってきた灰である。轆轤は心がゆるんでいるのである。形に面倒は要らないのである。数が沢山できた品である。仕事は早いのである。削りは 荒っぽいのである。手はよごれたままである。釉をこぼして高台にたらしてしまったのである。室は暗いのである。職人は文盲なのである。窯はみすぼらしいの である。焼き方は乱暴なのである。引っ付きがあるのである。だがそんなことにこだわっていないのである。またいられないのである。安ものである。誰だって それに夢なんか見ていないのである。こんな仕事して食うのは止めたいのである。焼物は下賤な人間のすることにきまっていたのである。ほとんど消費物なので ある。台所で使われたのである。相手は土百姓である。盛られるのは色の白い米ではない。使った後ろくそっぽ洗われもしないのである。朝鮮の田舎を旅した ら、誰だってこの光景に出会うのである。これほどざらにある当り前な品物はない。これがまがいもない天下の名器「大名物」の正体である。 だがそれでいいのである。それだからいいのである。それでこそい いのである。そう私は読者にいい直そう。坦々として波瀾のないもの、企みのないもの、邪気のないもの、素直なもの、自然なもの、無心なもの、奢らないも
の、誇らないもの、それが美しくなくして何であろうか。謙るもの、質素なもの、飾らないもの、それは当然人間の敬愛を受けていいのである。 それに何にも増して健全である。用途のために、働くために造られ たのである。それも普段使いにとて売られる品である。病弱では用に適わない。自ら丈夫な体が必要とされる。そこに見られる健康さは用から生まれた賜物であ る。平凡な実用こそ、作物に健全な美を保証する。 「そこには病に罹る機縁がない」と、そういう方が正しい。なぜな ら貧乏人が毎日使う平凡な飯茶碗である。一々凝っては作らない、それ故技巧の病いが入る時間がないのである。それは美を論じつつ作られた品ではない、それ 故意識の毒に罹る場合がないのである。それは甘い夢が産み出す品ではない、それ故感傷の遊戯に陥ることがないのである。それは神経の興奮から出てくるので はない。それ故変態に傾く素因をもたないのである。それは単純な目的のもとにできるのである。それ故華美な世界からは遠のくのである。なぜこの平易な茶碗 がかくも美しいか。それは実に平易たるそのことから生まれてくる必然の結果なのである。 非凡を好む人々は、「平易」から生まれてくる美を承知しない。そ れは消極的に生まれた美に過ぎないという。美を積極的に作ることこそ吾々の務めであると考える。だが事実は不思議である。いかなる人為からできた茶碗も、 この「井戸」を越え得たものがないではないか。そうしてすべての美しき茶碗は自然に従順だったもののみである。作為よりも自然が一層驚くべき結果を産む。 詳しい人智も自然の叡智の前にはなお愚かだと見える。「平易」の世界から何故美が生まれるか、それは畢竟「自然さ」があるからである。 自然なものは健康である。美にいろいろあろうとも、健康に勝る美 はあり得ない。なぜなら健康は常態だからである。最も自然な姿だからである。人々はかかる場合を「無事」といい、「無難」といい、「平安」といい、また 「息災」という。禅語にも「至道無難」というが、難なき状態より讃うべきものはない。そこには波瀾がないからである。静穏の美こそ最後の美である。『臨済 録』にいう、「無事は是れ貴人、造作することなかれ」と。 何故「喜左衛門井戸」が美しいか、それは「無事」だからである。 「造作したところがない」からである。孤篷庵禅庵にこそ、あの「井戸」の茶碗は相応しい。見る者に向かって常にこの一公案を投げるからである。・・・柳 宗悦『茶と美』のうち、「喜左衛門井戸を見る」より 井戸茶碗は作ったのではなく生まれたのだ!との説、「造作したと ころがない」「それは美を論じつつ作られた品ではない」 この言葉に接したとき、陶芸の世界に入った若い私は強烈な衝撃を受けました。 そうして、井戸茶碗への思いは、延々と続き何年か経った頃、よう やく井戸茶碗の雰囲気が感じられる茶碗ができたのでした。そのときの感動は忘れ得ぬ思い出です。また、何十回といろいろ試していくうちに、梅花皮(かいら ぎ)らしきものが出来たときの驚き、感動は忘れがたいものでした。 それからは、様式にそって水引(轆轤成形)をすると井戸茶碗の雰 囲気になってくれるのがうれしくて、夢中で水引したものです。又後で詳しく述べたいのですが、水引の方法があったのです。やみくもに形を追っていっても、 雰囲気は出ませんでした。大井戸茶碗の水引の仕方のようなものがあったのでした。もちろん高台の削りもそうです。そうしたことを含めて、一定の方向性、様 式のようなものがありました。
井戸茶碗への思いは、この世界に入った頃から続いていました。作 るようになったのは、7,8年後ですが、初めて作ったときの感動は忘れ得ぬ思い出です。いろいろ試してみて、梅花皮(かいらぎ)が出来たときの驚き、感動 は忘れがたいものでした。 様式にそって、水引をすると井戸茶碗の雰囲気になってくれるのがう れしくて、夢中で水引したものです。又後で詳しく述べたいのですが、水引の方法があったのです。やみくもに形を追っていっても、雰囲気は出ませんでした。 大井戸茶碗の水引の仕方のようなものがあったのでした。もちろん高台の削りもそうです。そうしたことを含めて、一定の方向性、様式のようなものがありまし た。 |
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